檀家のお寺で報恩講
今日は檀家のお寺さんで報恩講があった。報恩講の意味は良くわからないので調べてみると、親鸞聖人の命日の前後に、浄土真宗阿弥陀如来と宗祖親鸞に対する報恩謝徳の為に行われる法要だそうだ。
母の替わりに私がいくことになってここ数年。初めてどういう日か調べてみた。
コロナ渦の為集まる人はいつもよりはすくなかった。宗派は門徒なのでお坊さんは皆さん髪の毛がある。
4人で法要が行われて、後ろでお経の本を見ながら聞いている。お経の漢字は意味があるような、無いような。たぶんあるのだと思う、意味がありそうな熟語がずーと羅列されている。
法要が終わったら、講義がある。今回の講義は不安と安心について、コロナにちなんだ題材なのだと思う。
一般的に不安の反対語は安心(あんしん)であるが、この世は完璧な安心はない。生きている間は必ず不安なことは必ず出てくる。
仏教用語で安心とは(あんじん)とよみ、心やすらかになり、動揺しない境地に達することをいう。つまり浄土真宗では恐怖や不安から解放され、心安んじて生きていける境地をいうらしい。
親鸞聖人が、死ぬことは生まれたときから決まっている事、疫病で死んでしまう事は悲しい事ではあるが、人の命は無常である道理は釈尊がくわしくお説きになっているのでありますから、今更驚きになることではありません。
という話でした。コロナを怖いと思う気持ちは誰もがあるが、「あんじん」の境地になるようにすれば、不安から解放され動揺することもないという事だったと思う。
しかしながら、私には不安をなくすなど到底難しい事だと、これは理屈ではなく、自然とわいてくるものなので無理だなあと思った。心配性の私は、この前も子供に車の運転気をつけてな、眠くなったら仮眠してねと言うと、何歳になったと思ってるのかと言われてしまった。32歳の子でも事故起こしたらと不安になってしまうのだから。「あんじん」の境地には一生なれないような気がする。



